道徳教育で、みんなを幸せに!!

道徳的に「正しいこと(いいこと)」「間違っていること(悪いこと)」とは


あなたは、何が道徳的に「正しいこと(いいこと)」で、何が「間違っていること(悪いこと)」か、明確に理解していますか?


それらを明確に理解することは、「道徳的行動」や「道徳的生き方」をする上で、とても重要です。

なぜなら、「道徳的行動」や「道徳的生き方」をしようと思っても、何が道徳的に「正しいこと(いいこと)」で、何が「間違っていること(悪いこと)」かを明確に理解していなかったら、それらを見分けることができないからです。

そして、それらを見分けることができないので、「道徳的行動」や「道徳的生き方」を十分にすることができないからです。


そこで、ここでは、やまと式道徳教育における「正しいこと(いいこと)」と「間違っていること(悪いこと)」について、また、それらを見分けるための「判断の基準」について説明したいと思います。



世の中の全ての人は、基本的に幸せを求めています。

ですから、やまと式道徳教育では、「社会は、『全ての人が幸せを感じられる状態』であるべきである」と考えています。

具体的には、「戦争がない」「犯罪が少ない」「いじめが少ない」「自殺者が少ない」「病死、事故死が少ない」「交通事故が少ない」「失業率が低い」「貧困率が低い」「衣、食、住等の、生活に必要なものが行き渡っている」「子供からお年寄りまで、全ての人が、健康に安全に暮らせる環境である」「教育が行き届いている」、このような状態であるべきであると考えています。


やまと式道徳教育では、この「社会は、『全ての人が幸せを感じられる状態』であるべきである」という考えをもとに、道徳を定義し、道徳に関することを導き出しています。

そのため、やまと式道徳教育における「正しいこと(いいこと)」と「間違っていること(悪いこと)」は、次のようになります。


「正しいこと(いいこと)」=「直接的、間接的にかかわらず、『全ての人が幸せを感じられる社会』を実現させる行為、維持する行為」


「間違っていること(悪いこと)」=「直接的、間接的にかかわらず、『全ての人が幸せを感じられる社会』を乱す行為」


例えば、「物を盗むこと」や「人を殺すこと」は、誰でも「間違っていること(悪いこと)」だと考えますが、やまと式道徳教育においては、その理由は、「それらは、『全ての人が幸せを感じられる社会を乱す行為』だから」です。

同じように、「自分勝手な行動」「わがままな生き方」「人を騙すこと」「約束を破ること」「人に悪い影響を与えること」「いじめ」「パワハラ」等も、「『全ての人が幸せを感じられる社会』を乱す行為」だから「間違っていること(悪いこと)」になります。


逆に、「思いやりを持って人に接すること」「困っている人を助けること」「率先して社会に貢献すること」「子供をしっかり育てること」「社会全体のことを考えて行動すること」等は、「正しいこと(いいこと)」です。

それらの行為は、少なからず、「『全ての人が幸せを感じられる社会』を実現させること、維持すること」につながっています。

ですから、それらは「正しいこと(いいこと)」なのです。


このように、やまと式道徳教育においては、「直接的、間接的にかかわらず、『全ての人が幸せを感じられる社会』を実現させる行為、維持する行為」が「正しいこと(いいこと)」です。

そして、「直接的、間接的にかかわらず、『全ての人が幸せを感じられる社会』を乱す行為」が「間違っていること(悪いこと)」なのです。



さて、やまと式道徳教育においては、「正しいこと(いいこと)」と「間違っていること(悪いこと)」が明確なので、それらを見分けるための「判断の基準」も明確です。


そのための「判断の基準」とは、「直接的、間接的にかかわらず、最終的に『全ての人が幸せを感じられる社会を実現させること、維持すること』につながっているのか、それとも、最終的に『全ての人が幸せを感じられる社会を乱すこと』につながっているのか」という「観点」のことです。

この「観点」を「判断の基準」にして考えれば、「正しいこと(いいこと)」と「間違っていること(悪いこと)」を見分けることができます。


「直接的、間接的にかかわらず、最終的に『全ての人が幸せを感じられる社会を実現させること、維持すること』につながっている」なら、それは「正しいこと(いいこと)」です。


逆に、「直接的、間接的にかかわらず、最終的に『全ての人が幸せを感じられる社会を乱すこと』につながっている」なら、それは、「間違っていること(悪いこと)」です。


たとえ、一般的には「普通」「常識」と言われている行為でも、周りのみんながやっている行動でも、最終的に「『全ての人が幸せを感じられる社会』を乱すこと」につながっているなら、それは、「間違っていること(悪いこと)」です。

逆に、一見「非常識」と思われる行為、「変わっている」行為、誰一人やっていない行動でも、最終的に「『全ての人が幸せを感じられる社会』を実現させること、維持すること」につながっているなら、それは、「正しいこと(いいこと)」なのです。


このように、「直接的、間接的にかかわらず、最終的に『全ての人が幸せを感じられる社会を実現させること、維持すること』につながっているのか、それとも、最終的に『全ての人が幸せを感じられる社会を乱すこと』につながっているのか」という「観点」を「判断の基準」にして考えれば、「正しいこと(いいこと)」と「間違っていること(悪いこと)」を見分けることができるのです。



さて、ほとんどの人は、普段の生活の中で、「正しいこと」と「間違っていること」を見分け、「間違っていること」をしないようにしていますが、何が「正しいこと」で、何が「間違っていること」か、明確には理解していません。

ほとんどの人は、それらを明確に理解していないまま、それらを判断しているのです。


ですが、「正しいこと」と「間違っていること」を明確に理解していなかったら、「正しいこと」だと思ってやったことが、実は「間違っていること」であったり、気付かないうちに「間違っていること」をしたりすることになります。

また、自分の子供、後輩、部下等に対して、「正しいこと」をする必要性や、「間違っていること」をしてはいけない理由を、明確に説明することもできません。


逆に、「正しいこと」と「間違っていること」を明確に理解していれば、一生、「間違っていること」をしないで生きていくことができますし、誰かが「間違っていること」をして、それを注意するときに、「それをやってはいけない理由」を明確に説明することもできます。

「それは、『全ての人が幸せを感じられる社会を乱す行為』だからいけません」

「それをすると、『全ての人が幸せを感じられる社会』が乱れ、多くの人が『不幸』になるからやめなさい」

このように言うことができるのです。



さて、これらのことから分かるように、「道徳的行動」や「道徳的生き方」をする上で、「正しいこと(いいこと)」と「間違っていること(悪いこと)」を明確に理解することは、とても重要なことなのです。


みなさんは、「正しいこと(いいこと)」と「間違っていること(悪いこと)」を明確に理解していますか?

それらを的確に見分けることができていますか?

もし、それらができていないなら、それらを明確に理解し、的確に見分けられるようになってください。



やまと式道徳教育における、「正しいこと(いいこと)」と「間違っていること(悪いこと)」は、次の通りです。


「正しいこと(いいこと)」=「直接的、間接的にかかわらず、『全ての人が幸せを感じられる社会』を実現させる行為、維持する行為」

「間違っていること(悪いこと)」=「直接的、間接的にかかわらず、『全ての人が幸せを感じられる社会』を乱す行為」


また、それらを見分けるための「判断の基準」は、「直接的、間接的にかかわらず、最終的に『全ての人が幸せを感じられる社会を実現させること、維持すること』につながっているのか、それとも、最終的に『全ての人が幸せを感じられる社会を乱すこと』につながっているのか」という「観点」のことです。



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