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「謙譲の精神」を持っている

※ここで言う「謙譲の精神」とは、「謙虚な態度で相手に譲る精神」「謙虚な態度で一歩下がる精神」という意味です。

また、「譲る」とは、「機会」「立場」「利益」「順番」「道」「座席」「もの」等を「譲る」という意味です。



「やまと式道徳教育を実践している人」は、「謙譲の精神」を持っています。


全ての人は、「家族」「地域社会」「友人の集まり」「学校」「会社」「国家」等、様々な「全体」と関わって生活していますが、「全体」は「『共通の目的を持った人』の集まり」なので、どのような「全体」においても、「全体を構成する全ての人」は、「全体を構成する一員」という意味では「対等」です。

そのため、誰でも、人と接するときに、相手と「対等」であろうとすることがありますし、人によっては、常に「対等」であろうとします。

ですが、実際の「人間関係」において、どの状態が「対等」かを正確に言い当てるのは難しいので、ときには「対等」を主張しているつもりでも、実際は「対等以上」を主張していたり、実際は「対等」を主張していても、相手には「対等以上」に見えたりすることがあります。


このような状況で、それぞれが主張を続けて一歩も引かなかったら、いずれ、相手と「ぶつかる」ことになります。そして、「全体をまとめること」ができなくなります。

「やまと式道徳教育を実践している人」は、常に率先して、普段自分が関わっている「全体」をまとめていますが、それが、できなくなるのです。


このような問題を避け、「普段自分が関わっている『全体』をまとめる」ためには、「謙虚な態度で相手に譲る」「謙虚な態度で一歩下がる」という、「謙譲の精神」が必要になります。


「謙譲の精神」を持って相手に接するとは、「対等(50:50)」を必要以上に求めないで、「自分が『49』で、相手が『51』の割合でいいという考え」を持って、相手に接するということです。


どのような「全体」を「まとめる」場合でも、ときには「一歩も退かない覚悟」が必要ですが、基本的には、「謙譲の精神」を持って相手に接する方が、「人間関係」が円滑になるので有効です。


「対等であること」にこだわり過ぎると、遅かれ早かれ、相手と「ぶつかる」ことになります。

自分の「利益」ばかりを考え、「相手に譲ること」をしなかったら、「利益」は得られても、「人間関係」は悪くなります。

周りの人を押し退け、自分ばかりが「主張」していたら、周りの人の「反感」を買うことになります。

逆に、常に、「謙譲の精神」を持って相手に接していれば、基本的に、相手と「ぶつかる」ことはないので、「人間関係」は円滑になるのです。


このことから分かるように、「謙譲の精神」は、「人間関係」を円滑にする上で、とても有効なのです。

つまり、「『全体を構成する全ての人』をまとめる」上で、そして「全体をまとめる」上で、とても有効なのです。

ですから、「やまと式道徳教育を実践している人」は、「謙譲の精神」を持っているのです。


ところで、「やまと式道徳教育を実践している人」にとって、「謙譲の精神」は「目的」ではありません。

それは、「全体をまとめる」ための「手段」です。

つまり、「相手のために譲る」という発想ではなく、「全体をまとめるために譲る」という発想です。


ですから、いくら「謙譲の精神」が必要だと言っても、「譲るべきでないもの」まで譲ってはいけません。

逆に、「全体をまとめる」上で有効なら、一歩でも、二歩でも、三歩でも下がって、相手に譲るべきだと言えます。


やまと式道徳教育では、「世界は『全ての人が幸せを感じられる状態』であるべきである」と考え、そのような世界を「共存共栄の世の中」としています。

そして、それを実現させ、維持することを目指しています。

ですから、「やまと式道徳教育を実践している人」は、「対等であること」や「自分の主張を通すこと」に、こだわっていません。

「『共存共栄の世の中』を実現させ、維持すること(全ての人と共に『幸せ』になること)」に、こだわっています。

そのため、必要なときには、いつでも「謙虚な態度」で、相手に譲っているのです。


このような考えから、「やまと式道徳教育を実践している人」は、「謙譲の精神」を持っているのです。